Organizers of the Nomiyama exhibit in Kyushu
Back from left: Chairwoman of the FWU Alumnae Association, M(r)s. Yano Fumiko; Board Chairman spouse, Mrs. Kajiyama Chizuko; Vice-Chairperson of the FWU Support Group, Mr. Tsubota Masakazu; Professor at FWU, Director of the Library, Mrs. Tsukino Fumiko.
Front from left: Former Prefectural Governor of Fukuoka, Mr. Aso Wataru; Vice-Governor of Fukuoka Prefecture, M(r)s. Ebii Etsuko; Donor, Mr. Kawamura Shinichi; Board Chairman and FWU President, Dr. Kajiyama Tisato; Donor, M(r)s. Kawamura Akemi; Vice-Chairman of the Fukuoka Prefectural Assembly, Mr. Cho Hiroumi; Chairman of the Liberal Democratic Party Fukuoka Assembly,
Mr. Kurauchi Isao.
目 次
- (その一)生い立ち
- (その二)「マンドリンを持つ男」
- (その三)初期の活躍
- (その四)アマチ収容所
- (その五)「葡萄と檸檬」
- (その六)「幻の実シリーズ」
- (その七)国吉康雄、同時代の画家
- (その八)ニューヨークでの活動
- (その九)修復の仕事
- (その十)日本での個展
- 許山孝一年譜
(その一)生い立ち
許山孝一さんは明治33年9月14日、現在の福岡市博多区土居町に生まれました。
父、許山秀太郎、母トミの長男で、二人の妹タケときよの三人きょうだいでした。
明治33年と言うのは西暦でいうと1900年なので自分の年は分かやすいと、生前言っていたそうです。そこで私たちも、年齢が分かり易いように西暦で話を進めましょう。
1912年に呉服町尋常小学校を卒業しました。その後、冷泉小学校と呼ばれましたが、今の博多小学校に対応するでしょう。博多のど真ん中、山笠の中心であり、子どもの時から成人まで山笠は彼の心を大きく湧き立たせたでしょう。1919年、福岡県立小倉工業を卒業し、1920年渡米することになりました。ここから許山さんの画家としての人生が始まりました。渡米するきっかけは父秀太郎さんの勧めでした。
当時、秀太郎さんは骨董商としてアメリカと日本を往復し
、 美術品の取引や博多織の販売等をしていました。
26歳カルフォルニア・アート・オブ・ファイン・アート時代
秀太郎さんがアメリカに渡ったの1917年5月26日で、ハワイ経由でシアトルに着きました。
1920年、父に呼ばれて渡米、それ以来54年間アメリカでの生活が続いたのです。
父の仕事を手伝いながら、生活と英語の習得のため、いろんな仕事に就きました。
これはアメリカに移住した人たちの初めの苦しい生活と同じでしょう。
もともと父の骨董品や商品を見ていたので絵には興味があったのでしょう。
1925年、カリフォルニア・スクール・オブ・ファインアート壁画科に入学しました。
許山孝一さんの画家としての話に入る前に許山孝一さんと私との関係について話しましょう。これは全くの偶然です。
我が家の隣の奥さんと話している時、たまたま絵の話になりました。
「私の伯父が絵描きで、絵がたくさんあるのですけど、見てくれません」と言うことから許山さんの絵との出合いが始まりました。
隣の奥さん、河村明美さんは世代が違うので懇意だったわけではありませんでした。けれども、明美さんのお兄さんの佐藤正融さんは、私と同じ町内でお店を開いてあったし、お姉さんも知っていました。校区の卓球大会に出たり、町内の集まりで御一緒したりで、よく知っていました。そこで、明美さんとはすっかり親しくなり、絵の相談にのることになりました。
ここから二人で許山さんの絵のリストを作ったり、写真を撮ったり、昔の手紙を整理したり、遺作展の新聞記事を調べたりしました。はたまた今年の1月に、私がサンフランススコに遠征したりの、素人の『許山孝一調査プロジェクト』が出来た次第です。
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